労働問題 社会保険労務士について

コミュニケーション能力とは何なのか?

2020/05/31

「コミュニケーション能力とは何か?」ということを考える機会がありました。

世間でコミュニケーション能力があると思われている人が、実はコミュニケーションが苦手なのではないかと思うことがあったことがきっかけです。

目次

隠れコミュニケーション恐怖症のプロセス

コミュニケーション能力があると評価され、同僚や上司、顧客といつも楽しく会話をしているAさんがいます。

しかしAさんの仕事ぶりを見ると単純な確認もれが多く、別の社員が改めて確認をしなければならないこともあるそうです。

その結果「そんな話は聞いていない」とトラブルになることもしばしばだとか。

私はAさんではないので分かりませんが、おそらく次のようなことになっているのではないかと推測しました。

~コミュニケーション恐怖症のプロセス~

①自分はコミュニケーション能力がない 

②だから早くその場を切り抜けたい

③早く終わらせたいので細部は確認しない

③もし確認して質問でもされたら大変だ

④なぜなら質問に答える自信がない

⑤なんとか相手に調子を合わせて切り抜けよう

表面上はうまくコミュニケーションが出来ているように見えます。

隠れコミュニケーション恐怖症とでもいうべきでしょうか。

 

なぜこのような推測に至ったかというと、私も同じような経験があるからです。

自分に自信がなかったので相手から質問されるのが怖く、何とか会話を早く切り上げようと思っていた時期がありました。

今では「日本の社労士の中で自分が最高の知識を持っている」「もし自分に答えられないことがあるとすれば、他の誰も答えることができない」という気持ちでやっています。

もちろん”気持ち”だけです。そういう気概を持って仕事をしようということです。

日本が世界に誇るヘヴィーメタルバンド聖飢魔Ⅱのデーモン閣下も「リハーサルでは自分が世界で一番下手だと思え。ステージの上では自分が世界で一番偉いと思え」と仰っております。

 

Aさんのケースの場合、上司が本人とじっくり話し合う機会を作り、何が原因であるかを探すことが重要です。

単純な確認不足であれば解決は容易ですし、Aさんがコミュニケーション能力に実は不安を感じていたとすれば、それを克服するような方法を共に考える必要があります。

上司・リーダーにもコミュニケーション能力がない人が多い

先ほど「本人とじっくり話し合う」と書きましたが、この話し合いが出来ないリーダーや上司が多くいます。

社員の問題行動について相談を受けたとき、まず第一に「本人と話はしたのですか?」と確認させていだきますが、上司やリーダーが本人とじっくり話をしたという例は多くありません。

「まずは本人とじっくり話をしたらどうですか?」とお伝えしても、それを嫌がる方もいます。

「話し合いではなく、就業規則上の制裁を科せないか?」と言われることもあります。

制裁を科しても、お互いのコミュニケーションが欠けていれば事態が好転する見込みはありません。

いきなり制裁を科されても、納得しないでしょうし不満も募ります。

 

制裁や罰というのは用いないで済むのなら、それが一番いいのです。

話し合いで解決できるのであれば、話し合いで解決すべきです。

 

このように話し合いを避ける上司やリーダーにも、コミュニケーション恐怖症のプロセスが働いているのではないでしょうか。

部下に反論されるのが怖いので、話し合いを避けようとしているのです。

世間話など表面的な会話はできますが、重要な事柄については話をすることができないのです。

コミュニケーション能力があると思われている人が率いている企業や部署に離職者が多かったりすることがありますが、それは”なんとか相手に調子を合わせて切り抜けよう”としているだけで、いつまでたっても問題の本質を解決することができないからなのかもしれません。

宮城谷昌光に学ぶ”リーダーとコミュニケーション”

自分は小説家の宮城谷昌光先生の大ファンです。

宮城谷昌光先生の小説にはさまざまな主君、君主、宰相、将軍が登場します。その中で魅力的に感じるのは『重耳』に登場する晋の武公・称です。

『重耳』から称と臣下の関係を描いている文章を抜粋します。

称はさきざきのことを考えて、君臨の重さを徐々に太子へ移しながらも、人への興味を失っていない。臣下のもってくる、この種の小うるさい請願を、ものうげにしりぞけるようになったら、人主としてはおわりだといってよい。それをしない称は、君と臣がどういうものかを、よくよくわかっているせいもあるが、人好きは稟質であろう。

宮城谷昌光(著)講談社文庫『重耳(上)』

重耳を読むと分かりますが、称は臣下に対して実に細やかな気配りを行います。

深謀遠慮と言ってもいいかもしれません。

もちろんそれには晋を統一する、晋を繁栄させるという意志が込められています。

”人への興味”という言葉が出てきますが、この言葉は豊かな人生を送るためのキーワードです。

人と接しないで生きていく人はいないのですから。

そもそもコミュニケーション能力とは何なのだろうか?

コミュニケーション能力とは何かと言われれば、さまざまな答えがありますが、私は「外側にいるものを内側へと導く力」「内側にいる自分を外側に導く力」ではないかと思います。

離職者が多い職場では、集団の内側だけにしか通じない言葉やルールが多くあります。

新参者はそれを知らなくて当然ですが、知らないことを能力不足のように批難する人がいます。

集団の内側のルールをもとに新参者を攻撃する人は、コミュニケーション能力があると評価されていることが多々あります。

内側の人間に通じる言葉やルールを熟知している、あるいは作る側の人間なので、内側の人間からは評価されるのです。

 

このような人がコミュニケーション能力があるとは私は思いません。

人を活かさないものをコミュニケーション能力と呼ぶことはできません。

重耳に登場する武公・称とは天と地ほどの違いがあります。

 

コミュニケーション能力とは何かをよく考えず、世間でコミュニケーション能力があるされている人間やただ調子のいい話を延々と述べる人間を求めると、それにより人間関係がうまくいかなくなることがあります。

その場合でも表面上は巧妙に取り繕われているので、注意して人間関係を観察しないと気が付かないかもしれません。

人に興味がなくても、コミュニケーション能力がなくても、会社は経営できる

コミュニケーション能力がなければ企業経営はできないかと問われれば、そんなことはありません。

人に興味がなくても、新参者を攻撃するような風土を放置しても、企業は存続することができます。

よほど明確で大きな問題が起こらない限り、法的責任を問われることもないと思われます。

しかし人生の目的は何かと考えた場合、それは幸福になることだと私は考えています。

その企業で働くことによって苦しみや恨みを抱く人を増やすより、幸福になる人を増やしたほうが豊かな人生を送れるのではないでしょうか。

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