責任という言葉はうさんくさい
こんにちは。
特定社会保険労務士の北村です。
僕には長年意味が分からなった言葉があります。
今回はその言葉についてブログを書きたいと思います。
その言葉は「責任」です。
目次
「責任」という言葉はうさんくさい
「責任を取る」という言葉をよく耳にしますが、この言葉はうさんくさいと思っています。
特に上司が「オレが責任を取るからやってみろ」みたいなセリフを使ったときは要注意です。
それを真に受けて行動すると、だいたい痛い目を見ます。
上司はより強い権力を持っているので、なにか問題が起きたときには責任をこちらに押し付けてきます。
組織の中で出世するには失敗しないこと、言い換えれば「責任を取らない」ことが重要だからです。
責任なんて真面目に取ってたら、出世できません。
僕は短いサラリーマン生活で「上司の指示に従うと痛い目にあうこともある」「自分で考えて判断することが大事」ということを身をもって学びました。
責任とは立場の弱い人から順に取らされるもの
僕は、責任とは立場の弱い人から取らされることが多いと思っています。
例えば、政府の経済政策の失敗は、経済的に弱い立場にいる人ほど大きな影響を受けます。
経営陣の失敗によって、リストラされるのは経営者ではなく労働者です。
大量のリストラを行なった経営者が、経営のプロだともてはやされることもあります。
「責任を取る」って、どういうこと?
だいたい「責任を取る」って、どういうことなのでしょうか?
ちょっと僕には分からない。
なにか失敗があり、それによって損害が生じたときに責任論になります。
「責任を取って辞職しろ」なんて言う人もいますが、辞職しただけでは損害はそのままです。
「辞職する」=「責任を取る」ではないと思います。
では「責任を取る」とは「発生した損害の埋め合わせをする」ことなのでしょうか?
損害の埋め合わせをすると言っても、世の中に真の意味で埋め合わせができることなど存在するのでしょうか?
物を壊したときは同じ物を購入すれば良さそうな気がしますが、壊れてしまった最初のものと新しく購入したものは、厳密には別物です。
責任を取るとは、自分の行為について説明したり弁明したりすること
森喜朗元首相が女性蔑視の発言をしたことは記憶に新しいですが、これはどのように責任を取ればよいのでしょうか?
森元首相は東京五輪・パラリンピック組織委員会の委員長を辞任しましたが、これで責任を取ったことになるのでしょうか?
先日、kindle unlimitedで佐藤優先生の『メンタルの強化書』を読んだところ、責任について興味深い記述がありました。
責任は英語で「responsiblity」。
「responsiblity」のもとはラテン語の「respondere」だとされる。
「respondere」の本来の意味は「法廷で訴えられた人物が自分の行為について説明したり弁明したりすること」
キリスト教では人間は堕落した存在であり、到底自由を与えられる存在ではない。
「自由」が与えられていないから「責任」は人間にはない。
「責任」を取ろう、取れると考えること自体が、愚かで不完全な人間の傲慢。
人間は不完全なので、どこかで必ず失敗し罪を犯す。そのときに神に向かって弁明することは許される。
クロスメディア・パブリッシング(インプレス) 佐藤優(著)『メンタルの強化書』より北村が要約
佐藤先生の責任に関する考えは納得できます。
自分の行為について説明し、事後処理は関係者が皆で対処する、これが責任を取るということなのだと思います。
責任を取ることの第一歩が「自分の行為について説明すること」だとすると、森元首相は問題発言の後の釈明会見が良くなかったのだと思います。
釈明会見の全文を読んでみたのですが、なぜあのような発言をしたのかについてはよく分かりません。
森元首相の後任の委員長選びについてもどうやらもめているようですが、東京五輪・パラリンピックは一体どうなることやら。