今まで生きてきた以上の時間を、これから生きることはないと思う
2021/06/08
こんにちは。
神奈川県鎌倉市の特定社会保険労務士の北村です。
目次
今まで生きてきた以上の時間を、これから生きることはないと思う
僕は今39歳です。
残りの寿命を考えたとき、今まで生きてきた時間以上は生きられない可能性が高いと思っています。
人生の短さについて、古代ローマの哲学者であるセネカがこんなことを言っています。
あなたは、たくさんの人たちが、こう言っているのを耳にするだろう。-五十を過ぎたら仕事を引退しよう。六十になれば、公の役目から解放されることだろうと。
だが、あなたがそんなに長生きする保証が、どこにあるというのか。あなたの思い通りに計画が進むことを、だれが許したというのか。人生の残りかすを自分のために取っておき、善き精神的活動のために、もうなんの仕事もできなくなった時間しかあてがわないなんて、恥ずかしいとは思わないのか。生きることをやめなければならないときに、生きることを始めるとは、遅すぎるのではないか。
自分が死すべき存在だということを忘れ、五十や六十という歳になるまで賢明な計画を先延ばしにし、わずかな人たちしか達することのない年齢になってから人生を始めようとするとは、どこまで愚かなのか。
光文社古典新約文庫『人生の短さについて 他2篇』セネカ 著 中澤務 訳
なかなか辛辣な表現ですが、セネカの言うことはもっともだと思います。
自分の人生を振り返ってみても、特に社会保険労務士として独立するまでは、自分のための時間はあまり長くなかったと思います。
これからはセネカの言葉を肝に銘じて、人生を有意義なものとしたいと思います。
時間の感覚について
僕は時間にはきっちりしているほうだと自分では思っています。
例えば10時に外出するとしたら、9時50分には準備を終えて待機し、10時数分前には家を出る。
うちの妻は時間にルーズなタイプで、10時に外出する約束でも、10時には準備ができていないことが多い。
準備が出来ていないならまだマシなほうで、テレビを見たまま動かないので準備自体をしていないこともある。
てっきり外出する気がなくなったのかと思い、僕一人で出かけようでもするなら、火山の噴火のように怒り出すから困ったものです。
プライベートについてはルーズでもいい気もする
時間の感覚は人それぞれで、それを変えるのはなかなか難しい。
他の多くの問題と同じように、妥協できる側が妥協するだけです。
僕と妻との関係では、妥協するのは僕のほうです。
ただ最近はプライベートな時間についてはルーズでもいいと思い始めてきました。
休みの日までキッチリ行動されては妻も息苦しいと思いますし、鎌倉の海や山、神社仏閣を見ていると、10分や20分の時間のために諍いを起こすことが実に愚かに思えます。
鶴岡八幡宮は800年以上から同じ場所に立っています。
八幡宮の大神様の「800年も前からここにいますから、10分や20分なんていくらでも待ちますよ」声が聞こえるような気がします。